石鼓文の話(文字の変遷なども含め) その3 |
例えば、最初の字である「吾」については、向かって右上の部分であるので、下のようなカーブの曲(球)面から採拓されたものとして理解する必要がある。つまり、平面において書く(臨書する)場合は、それを勘案する必要があると、私は考えるのである。

あと、この「吾」という字には、どうして余計なもの<しんにょう(しんにゅう)と午>がついているのだろう。石鼓文というのは、最初の1文字から、好奇心を刺激する。
手元にその資料が見当たらないのだが、一種の権威装飾主義(文字を飾る)で、金文(その前時代)の「吾」(この石鼓文の真ん中部分「五」「五」「口」)に、しんにょう+午が付いたとする説を本で見たことがある。
しかし、この「しんにょう+吾+午」は、説文(小篆)ではしんにょうが省略され「吾+午」という字形(後出の「迕」の正字)になり、また、吾が省略され現代の「迕」(さからう、「逆」らうと同義)になってしまう。そして、現代の「吾」はというと、説文においては、真ん中の「五」「五」「口」つまり金文体から「五」が1つ減った形「五」「口」(パーツとしては楷書と同じ)になる。
不思議だ。私も学者では無いので、良く分からない。多分、こういう研究の論文があるのかもしれないが・・・・私としては、「音通」かなー、と拙く想像するのみである。
注:音通:同音の文字のを代わりに使用すること。例としては「一」の代わりに「乙」使用=現代の篆刻作品にも多い。(私の昨年毎日書道展出品作品中の「一」も音通で「乙」を使用)
ちなみに、同意の文字を代わりに使用するのは仮借という